震災から3年目を迎える2014年3月11日、これまでの活動を皆様にお伝えするべく、
3回目となる、自立支援シンポジウム「光に向かって」を開催しました。
前半は、各地からお招きした皆様に、テーマ別にお話をして頂きました。後半のパネルディスカッション「光に向かって」では、
会場からの声を積極的に取り入れ、全員参加型のシンポジウムとなりました。
会場は花畑をイメージして、総数150鉢の花を全体にちりばめました。
「花は咲く」という歌がございますが、切花ではなく鉢植えにしたのは、花を咲かせる為には土のケア、土の生命力に思いを馳せて戴きたいという代表理事の思いからです。
正面にはゴトウ花店からの協力を得て、大きなハートのオブジェを飾りました。
黙祷で厳かに開会し、当財団の活動を10分間にまとめた映像をご覧いただいた後、東北からお越し下さった皆様の講演となりましたが、
マスコミ経由では伝わらない生の声や、我々が当初よりボランティアの主眼として掲げてきた自立支援(心のケア)の必要性について皆様と理解を共有する良い機会となりました。
『被災地』とひとくくりで言われています。しかし、必要とされている支援は地域ごとに異なること、
時の経過とともに変化してきていることを、生の声でお聞きすることができました。
被災者、支援者、そして自らも被災者なのに支援者とならなければならない方に、それぞれの立場から話をして戴きました。
各講演の一部をご紹介させていただきます。
● 講演1: 社会福祉法人 南三陸町社会福祉協議会 事務局長 猪又隆弘様
猪又様の講演では、阪神淡路大震災がNPO・NGOのボランティア元年とすれば、東日本大震災は
企業ボランティア元年であることが説明されました。猪又様はまた、必要な支援が「生命の維持」から「生活の維持」、更に「心のケア」へと
変化してきたこと、被災者でもある行政側が支援者にならなくてはならない現状をお話しされました。
南三陸町では65歳以上の高齢者世帯が増加しており、充実した福祉施設が必要とされています。
震災による津波は、これら福祉施設を流出させてしまいました。
それに代わる施設の建設に目途が立たない現状を踏まえ、
猪又様は、低コスト、かつ利便性の向上が期待できる福祉の総合施設「福祉モール」が必要であると提案されました。
「福祉モール」からは以下の様なメリットが得られると期待されています。
- 福祉事業者が集まって事業運営する事ができるので、各事業者のコストダウンが可能。
- 福祉事業者のコストが下がれば、利用者が負担する介護保険料もダウン。
- 利用者は「福祉モール」にいけば様々なサービスを同じ施設内で利用する事ができ利便性が向上。
- 福祉事業者同士の連携も取れるので、一人の利用者を複数の事業者で支える事ができる。
南三陸町では、まだまだ復興の道筋は見えません。
全国では被災の記憶の風化が進み、被災地が忘れられつつある現状を、猪又様は憂慮され、できるだけ多くの人に被災地の現実、現状を理解していただき、これからも
支援をお願いしたいと力説されました。
● 講演2: 宮城県漁業協同組合 塩釜市浦戸支所運営委員会 委員長 千葉眞澄様
宮城県漁業協同組合 塩釜市浦戸東部支所運営委員会 委員長 内海光雄様
宮城県 浦戸諸島桂島では、地震発生の直後、若手が中心となって全ての住人に高台への避難を促した為、奇跡的にも犠牲者が出ませんでした。
この島では牡蠣と海苔の養殖業を営む方々がほとんどでしたが、全ての養殖施設が津波の壊滅的な被害を受けました。
島民の方たちは、漁業の再開をあきらめかけたそうです。
そのような状況の中、津波共済で得た保険金が希望の光となりました。
さらには、自らの手で操業再開の糸口を掴むため、支援金募集を目的に任意団体「うらと海の子再生プロジェクト」を立ち上げました。
当初、寄せられた支援金は数百万円と聞いていましたが、メディアに度々紹介されたこともあり、最終的には1億7500万円もの支援金が寄せられたそうです。
当財団は、税務、法務、そして経営上の知的支援を提供して、うらと海の子再生プロジェクトの社団法人化を力強く支援させていただきました。
一方人的支援の面では、2011年5月中旬から7月末までの毎週末に、当財団が派遣した延べ50名以上のボランティアが、
島内清掃や海苔養殖用の仕掛け作りといった漁業再開の為の作業に参加しています。
うらと海の子再生プロジェクトの事務処理作業にも当財団のボランティアが参加して、千葉様から何度も御礼のお言葉を頂き一同うれしく思いました。
震災から3年、この島の漁業関係者の皆様は、新たな品種の牡蠣作りに挑戦するなど、いち早く復興を成し遂げておられます。
今後の益々の発展を祈念しております。
● 講演3: 千厩(せんまや)町仮設住宅 明日花の会 会長 末廣順士様
気仙沼湾の近くに住まわれていた末廣様は、地震の発生直後に高台へ避難をして助かりました。
地震の後は、滝の様な轟音とともに気仙沼湾の底が見え、その後に襲ってきた津波により家や300トン級の船が流されてくる様子を目の前にし、
自分の大切な家が流される様子を、何もできずにただ見ていました。
流れてくる家の中にいる人の、助けを求めるような視線と目があった時は、どうにもできない自分をつらく感じました。
その後、末廣様ご自身も流れに引き込まれそうになりながらも、流されている2人の男女を助けることができたそうです。
寄せられる支援のおかげで、着るものと食べるものは十分に足りている一方、住む場所は未だに仮設住宅であり、心から落ち着いて住める場所が早くほしい、その様に末廣様は力説されました。
気仙沼地域での死者行方不明者は1277名(2014年1月14日現在)を数えますが、奇跡的にも生き残った自分がまっすぐに頑張ってゆくことが、
亡くなった方々への一番の供養ではないかと考えて日々行動されているそうです。
末廣様より、ご講演の原稿を頂き公開の許可をいただいています。
講演原稿を開くには右のリンクをクリックしてください
(末廣様講演原稿)。
● 講演4: 釜谷(かまや)地区慰霊碑設立委員会代表 武山郁夫様
当財団と武山様が知り合うこととなったのは、武山様が昨年の3月11日に石巻市大川小学校跡地へ慰霊碑を設立すべく準備をされていた時でした。
当財団でも同地にエンゼル像を寄贈する案があり、調査を進めていた時に、偶然にも武山様と知り合うこととなり、今日に至っております。
震災当時、武山様のお住まいは、仕事の関係上ご家族と遠く離れた静岡でしたが、大川地区にお母様、奥様、そしてお嬢様がお住まいでした。
震災翌日の土曜日、武山様は石巻に戻り、無事を信じてご家族を探し始めましたが、救助され、避難所に運ばれてくる人々の中に、ご家族の姿はありませんでした。
月曜から自力での捜索を開始されましたが、ご自宅のあったはずの場所は全て波に流され、更地となっているのを目の当たりにして、ご家族が亡くなっていることを理解せざるを得なかったそうです。
武山様は、ご家族の遺体を確認できた後も、震災後6ヶ月間に渡って捜索をされました。
今でも、行方不明者は37人(小学生4人)おられ、必死に捜索を続けるご家族がいらっしゃいます。
亡くなられたお嬢様は、4月に航空自衛隊に入隊が決まっていたそうです。
お嬢様のお誕生日は3月10日でしたので、武山様は地元のラジオ局にユーミンの「ひこうき雲」をリクエストしましたが、残念なことに取り上げられませんでした。
そこで武山様は、会場に音楽関係者がいらしたら、ユーミンのコンサートを石巻で開催してくれたらうれしいとお願いされました。
亡くなられたご家族と共にあるために、外泊しないことを貫いてきた武山様ですが、震災から3年となる今回は、
自分の経験したことを伝えることが人様のお役に立てるのであれば、亡くなった家族も喜んでくれるのではと決意されて東京へ来てくださいました。
最後に武山様は、震災時は「自分の命を守ることだけに専念する」「モノやカネを取りに戻らない」、
そして「大事な家族と離れている場合は事前に避難場所と連絡方法を決めておく」ことを忘れないで欲しいとお話しされました。
● 講演5: 一関市千厩(せんまや)支所 支所長 菅野佳弘様
一関市千厩地域の人口は、昭和30年の18万人をピークに12万人台へと大幅に減少、さらに高齢化が進んでいます。
シミュレーションでは、20年後の世帯数はさらに減少し、空き家率も高くなります。
講演の中で管野様は、平成26年度に行政が取り組むべき施策イメージは、
1)放射性物質による汚染問題への対策、
2)高齢化と人口減少社会への対応、
3)協働によるまちづくりの推進であるとお話しされました。
一関市では、東日本大震災の支援として陸前高田市へ11人、気仙沼市へ2人の職員を派遣しています。
押し付けない支援を基本として、近くを助ける『近助』の考え方で対応されています。
ILC(国際リニアコライダー)に関して管野様は、どのような価値や意義があるのか、このプロジェクトの重要性についてお話をされました。
この施設の建設がきっかけとなり、地域の若い世代が希望を抱くようになり、さらには科学振興に拍車がかかるでしょう。
次代を担う人材がこの地域で育ち、次世代科学技術産業の土台が築かれ、イノベーションが生まれる地域になることで、
世界遺産の平泉(中尊寺を中心とする浄土思想)と、最先端科学技術拠点のILCが車の両輪の様に存在する素晴らしい地域となると期待されています。
ILC建設ピーク字には、6、500人、運用定常時には10、400人程度の人口が見込まれ、
経済的な波及効果も大きいと見込まれています。
希望に満ちた若い世代が、世界に向けて「東北ルネサンス」を発信することが進むべき道であると確信しています。
● 講演6: 奥州市国際交流協会 会長/株式会社水沢農薬 代表取締役社長 佐藤剛様
佐藤様は震災で津波被害を受けていない地域にお住いでしたが、すぐに経営している会社の取引先などを通して燃料の確保を行いました。
3月16日からは、市に届いた支援物資を被災地域へと自ら運搬されました。
最初に届けた気仙沼は悲惨な状況にあり、物資の運搬は通算125回に達しました。
また、奥州市国際交流協会では、FMコミュニティー放送を使って3ヶ国語で情報提供を行いました。
これは普段では電波が届かない大船渡や陸前高田まで届き、大いに感謝されたそうです。
被災地域では、心情的な問題もあって被災した建物や船などを残さない方向に進んでいるが、
震災の記憶を次世代の安全につなげたいのであれば、嫌なものこそ残しておくべきと、佐藤様は述べられました。
1124年に建立された平泉の中尊寺金色堂、これは当時の技術の集大成であり、人々の誇りでありました。
また1899年に水沢に建設された緯度観測所も同じように、世界で唯一のものが水沢にあると、現地の人の誇りを掻き立てました。
この観測所に関わった人々により、ピアノ、バイオリン、テニスがこの地に伝わったとも言われているそうです。
ILCもこれら二つと同様、地域の誇りとなり得る施設であり、子供達の心に科学への興味を植え付け、
将来にわたって郷土へのプライドを与えてくれるであろうと思われます。
そして、奥州市在住500人の外国人にも仕事の機会ができるでしょう。
佐藤様は、震災を忘れようとしている被災地の現状にふれながら、皆様には震災を忘れてほしくないと希望を述べられました。
最後に、次のように話されています。
宮城、岩手、福島の産物を購入してほしい。
また、ぜひとも被災地を訪れてほしい。
それだけでも十分ボランティア活動です、と。
● 講演7: インターナショナルILCサポート委員会 Bill Lewis 様
インターナショナルILCサポート委員会は、岩手県在住の外国人12人(7ヶ国)で構成されています。
奥州市国際交流協会と協働しながら、ILCプロジェクトで東北にやってくる外国人研究者や技術者、その家族のニーズを行政や民間団体、
企業に届けるために努力されています。Bill様を含め、委員会メンバーは、岩手県で暮らす外国人としての豊富な経験を活かし、
肌で感じてきた奥州のコミュニティーが持つ愛すべきホスピタリティをILCで奥州市に来る方々に示すべく、知識とサポートを市に対して提供していらっしゃいます。
インターナショナルILCサポート委員会は、奥州市に対して以下の提案を行いました。
- Community / Social Integration:習慣 イベント(祭り)への参加
- Shopping:買い物 体の大きい人には選択肢が少ないで困る
- Transportation:道路狭い、水沢と水沢江刺の駅間が離れているので、シャトルバスがほしい
- Living in Iwate:英語表示が少なくて困る
- Education:インターナショナルスクールの設立が必要
この提案は、外国人だけのためではなく、日本人の為にも役に立つと思います。
また、Bill様からは提案以外にも様々なアイデアがあって、順次対応中との報告がされました。
奥州市国際交流協会は日本に来た外国人の為ではなく、日本の人たちが外国人の為により良い形で情報共有することをお手伝いする為に設立されたとの説明もなされました。
● 講演8: 大籠(おおかご)キリシタン資料館館長 畠山満様
畠山様の講演は、
東北の片田舎に江戸時代のはじめ幕府のキリシタン弾圧により多くの方が殉教された村がある、
今は言い伝えや隠れキリシタンの史跡が山あいに点在しており、この史跡を何とか地域の活性に
導きたいとのお話でした。
岩手県最南の一関市藤沢町大籠地区は、江戸時代の初め、村全体にキリスト教がひろまり、
たたら製鉄によって仙台藩きっての鉄の産地として栄えていました。
ところが1639年(寛永16)から数年にわたる幕府のキリシタン弾圧により、この村だけで300余名の方が殉教(処刑)されました。
人里はなれた山あいには祈りの洞窟が、そして踏み絵を拒んだ者が容赦なく処刑された刑場跡地などが点在します。
この歴史を後世に伝えようと、平成6から7年にかけて大籠キリシタン殉教公園が整備されました。
公園にはキリシタン資料館、殉教の309階段、そして階段を登りきると大籠を見渡すことができる高台に歴史の丘とクルス館があります。
中には長崎の26聖人でもしられる彫刻家、舟越保武氏の作品で等身大のイエスキリスト像が展示されています。
今は巡礼者、歴史研究家、福祉関係、学校関係者が多く訪れます。
たたら製鉄は大籠が良質の木炭が豊富だったことから始まりました。大籠では、その地に入った途端に昔の山煙があがり、炭焼きの風景がいまだにみられます。
大籠にはお寺がありません。あるのは、カトリック教会が一軒だけです。
訪れる人々は殉教公園と地域を探訪し、山あいを散策して歴史を感じ、殉教していった先人の純粋な眼差しを感じ心打たれてゆきます。
この歴史を何とか地域の活性に導けないかと、地元有志で「大籠キリシタン史跡地域おこしの会」を結成し、
畠山様が事務局となりました。
当財団が親しくしている藤沢町のご住職を通じ畠山様と出会ったのは、2012年12月のことです。
当財団の代表理事が当地の歴史に感銘し、地域活性化のお手伝いを始めることになりました。
その年の暮れ、永年閉じていた大籠カトリック教会で、30数年ぶりとなるミサがおこなわれました。
全体がイルミネーションで飾られた教会は、過疎化が進むこの地域にとって久々に灯りとなりました。
キャンドルサービスに歓声があがり、新聞でも大きく報道されました。
畠山様の発表されていた時間中に、3年前の3月11日に大地震があった午後2時46分と
なった為、皆様と共に東日本大震災で犠牲となった方々のご冥福を祈り、黙祷を捧げました。
● パネルディスカッション
菅野佳弘様、末廣順士様、武山郁夫様、畠山満様、Bill Lewis様、佐藤剛様にセイエド・タヘルがパネリストとなりました。
代表理事の佐多がコーディネーターとなり、会場との対話形式で会が進められました。
被災地に行くことができなかった人も、今回のシンポジウムに参加して戴けたことがボランティア
活動の一つになるとの話に始まり、連帯東北・西南が活動の当初から掲げてきた自立支援についての
話となりました。
まずは代表理事から、
自立に大事なことは「生命力」ではないかと考えている、
更に、生命力で大事なことは土であり、立ち上がるには土に生命力を取り戻してもらうことである、
我々が被災者のそばに行くことで、生命力を取り戻して戴くサポートが出来るのでは、と考えながらずっと行動して来ていると
話がありました。
会場からは、「演者の貴重な体験は是非とも出版物として残し、多くの人に読んでいただきたい」、
「東北から新しい日本を作ってほしい」、「被災地のことを聞かせていただき、感謝」、「自分たちが
すべきことはまだたくさんある」、「ボランティア活動に参加した際もどこかで躊躇していた自分を
恥じている」、「高齢化や若い人が自立できていないことなど、仮設で起こっていることは東北だけの
問題ではなく、日本全国でも起きている問題なのです」、「禁教の歴史の反動から正しい宗教感が
日本では育っていない」など様々な意見が出され、時間がいくらあっても
足りない程でした。
千厩町ロータリークラブからいらして下さった尾形様により、宮沢賢治先生の「雨ニモマケズ」を
岩手弁で会場の皆様にご披露させていただきました。昨今、見事な東北弁を聞く機会が本当に少なく
なりましたので、東北に親近感をお持ち戴いた様に思います。
そして最後に、日本さくらの会 浅田様から桜の苗木を3本寄贈して戴きました。
お帰りの際には、ご参加の皆様に、会場内に飾った花の鉢植えをプレゼントさせて戴きました。
● シンポジウムをとおして
東北の支援は「心のケア」が大事と言われ始めています。当財団では、設立の当初よりその必要性に目を向けて、「自立支援」と言葉を変えて活動を続けてまいりました。
当財団では、一人一人の日本人が正しい宗教感、宗教心を持つことは人間として非常に大事なことと考えてい
ます。しかし、果たして現代日本人はこの点如何なものでしょうか?
「心のケア」をしようという時にどういう宗教感、宗教心あるいは倫理観に根差した人間愛で被災地(被災者)に寄り添うかが真に問われている様に感じます。