震災から4年目を迎える2015年3月8日、5回目となる、自立支援シンポジウム「光に向かって」を開催しました。
会場となったのは仙台白百合学園のレジナパーチスホールで、同小学校校長の渡辺瑞穂様とのご縁から会場を使用させて戴けることとなりました。
準備から当日の会場設営まで様々なご支援をして下さいました。
代表理事による挨拶「本業は医療機械の輸入する仕事をしていますが、
震災をきっかけに何らかのお手伝いをしたいと考えて一般財団法人を設立、支援活動を続けてきました。
ボランティアにも様々な形がありますが、当財団では皆様に元気を出して立ち上がって戴きたく、自立支援を活動の主目的としてきました。
ともだちカレーイベントをきっかけに、仮設住宅にお住いの皆様とお近づきになり、コミュニケーションの活性化に努めてきました。
また、活動の拠点としている岩手県千厩町の皆様ともお親しくなり、ともだちカレーに必要な、鶏肉や牛乳の無償提供を受けていることなど、
様々な方々に支えられて活動を続けております。」の後に開会、各宗教者の代表者と共に鎮魂の祈りを捧げる儀式となり、竹駒神社権宮司 村田守弘様から厳かに開始となりました。
曹洞宗住職の高橋英悟様、佐藤良規(りょうき)様、僧侶の藤波大吾様、キリスト教代表は元白百合学園小学校校長の青木千枝子様と続きました。
そして最後にイスラム教代表として、弊財団のセイエド・タヘルもコーランを披露し、宗教・国境を越えた儀式となりました。
講演の部となり、最初はセイエド・タヘルから4年間の活動についてお話をさせて戴いた後、当財団の活動を10分間にまとめた映像をご覧いただき、ゲストの皆様による講演となりました。
各講演の一部をご紹介させていただきます。
● 講演1: 岩手県立大槌病院 院長 岩田千尋(ちひろ)様
震災から4年、ようやく病院の新築工事が始まり、少し復興の兆しが見えてきたとのことで、震災後の様子を院内から撮影した生々しい写真を多用したスライドで説明して下さいました。
県立大槌病院は121床の病院でしたが、医師不足により60床に減らして診療をしていました。
震災直後、早期に津波警報を入手、入院患者を3階以上に移しました。過去の津波状況から、襲ってきても1階までと考えていたが、
想定を越える大きさで、5分で街を飲み込んだのです。病院は、海から500m離れていたので、幸運にも津波は2階で止まりました。
震災後、病院には患者、職員、近隣住民を含めて合計153名がおりました。寝たきり患者を屋上のサンルームに移動させるなどしましたが、寒さとの戦いでした。
夕方には近所の寺が炎上し、夜遅くまで鎮火しませんでした。朝になると、辺りは瓦礫で囲まれていました。
3月12日までは患者を院内に残していましたが、余震が続き危険だったので、3月13日に患者30名と職員70名を高台の大槌高校へ移動しました。すぐにJMATの応援隊が到着しました。
その後、上町ふれあいセンターを仮設診療所として、4月25日から診療を開始しました。ここでは、約2ヶ月診療を続けました。
そして、6月27日に現在の仮設診療所が完成して、現在に至っておりますが、患者数は減少し、外来90名前後となりました。
野球場のあった場所に、新病院と職員宿舎を建設中で、2015年12月完成し、翌年開院を目指して取り組んでいます。
● 講演2: あしなが育英会 東北事務所長 林田吉司(よしじ)様
震災遺児の現状についてですが、震災から4年が経過しようとしている今でも子供達の心の傷は癒えておらず、
サイレンの音や花の匂いに敏感で、食事も出来なくなってしまうことや、焼き肉を多くの人と一緒に食べることで、家族との楽しかった食事を想い出したい子供がいます。
今後も必ず災害は発生するので、残された子供がどうなるか、大人はどうすれば良いのか、文化として残してゆくべきと考えています。あしなが育英会では、
レインボーハウスを作って子供たちの遊び場を提供していますが、現実問題としてレインボーハウスへ来ることができない子供も多いので、
こちらから沿岸部へ出向いて子供たちのケアをすべきと考えています。
● パネルディスカッション 震災から考える
青木猪三生(いさお) 様 有限会社青木商事 社長 /一関市
一関市でリサイクル店を営んでいる青木様は、連帯東北・西南のスタッフが被災地支援の為カレー作りをする鍋を探しに来たことがきっかけで知り合いとなり、物的支援及び作業支援を行っております。
遠藤伸一様 チームわたほい代表 /石巻市
渡波小学校避難所での出会いから今日に至っております。渡波小学校は正式の避難所として指定されていなかったので、
10日位は食料を確保するのが大変でした。
震災を通じて感じたのは、自然を破壊したのは人間かもしれないが、震災時に人を救ったのも人間であった。
生きてゆくには人とのつながりが大事と感じるようになり、今でも人に生まれて良かったと思っています。
あるご縁から、ウィリアム王子が東北にいらした際、20分くらい直接にお話をすることができたのですが、
お母様を亡くしたウィリアム王子は、子供を亡くした遠藤さんの気持ちがある意味で理解できると言われました。
小野寺慶志(けいし)様 前千厩ロータリークラブ会長 /一関市
外国人が東北の為に頑張ってくれている姿に感じるところがあって、自分も何かをしなくてはとの想いから、ともだちカレーイベントで使用される鶏肉の支援を続けております。
高橋英悟様 宗教法人吉祥寺代表役員 曹洞宗虎龍山吉祥寺 住職
震災直後、寺が高台にあったので避難所として解放し、250名の方を受け入れましたが、大槌町では1234名に加え、関連死50名で合計1284名が震災の犠牲となりました。
430名が今でも行方不明なのです。町では1284名の生きた証を残すプロジェクトが進んでいます。震災をどうやって伝えるか、皆の助けのおかげで今まで生きていることに感謝し、
命の大切さを伝えてゆきたいのです。
医師は体の健康、住職は人の心の健康を守るべく努めています。支援の行き届かないところに支援の手を差し伸べたい連帯東北・西南の想いを形にすべく、大槌町役場支援の橋渡しをしました。
武山郁夫(いくお) 様 釜谷地区慰霊碑設立委員会代表 /石巻市
武山様と当財団が知り合うこととなったのは、石巻市大川小学校跡地へ慰霊碑を設立すべく準備をされていた時でした。
当財団でも同地にエンゼル像を寄贈する案があり、調査を進めていた時に、偶然にも武山様と知り合うこととなり、今日に至っております。
武山様は震災当時、仕事の関係でご家族と離れて静岡でお暮らしでしたが、大川地区にてお母様、奥様、そしてお嬢様を亡くされました。
村上優一様 陸前高田 天洋丸 船主 /陸前高田市
陸前高田で地震にあい、高台に避難して助かったが、家や船は流されました。1年で家を建て、現在に至る。
何かをするたびに問題が出て、先が見えない状況。人々の力に支えられて生きていることに感謝しています。
村上優一様 陸前高田 天洋丸 船主 /陸前高田市
石巻市北上町十三浜大指の被災漁村のために、2011年12月、「大指十三浜子どもハウス」を設立。その運営を続けている。
被災直後、支援の手が届いていないと聞き、大指復興アクションを発足させた。
大指十三浜こどもハウスの建設費、約2000万円の寄付を集めるには大きな苦労をしたが、少なくとも5年間は維持管理を続けるつもりだ。
何を学んでどう伝えてゆけばよいのかとの問いに対し、巨大災害をバネに、単なる「復興」ではなく「新興」が必要と発言。
また、巨大津波災害の経験をテーマとする文学賞を設立、50ヶ国語に翻訳し世界に発信するような文化的な取り組みを提案(最優秀作品には賞金1000万円を授与)。
小惑星探査機「はやぶさ」が幾多の困難を乗り越えて地球帰還を果たしたことは、日本に勇気と自信を与えた。山根一眞著『小惑星探査機はやぶさの大冒険』はベストセラーとなり渡辺謙主演で東映で映画化されたが、
2012年2月、その試写会を東北各地優先としたのも困難に立ち向かってほしいという願いからだった。
三陸沿岸は世界3大漁場のひとつだけに、ここで新しい漁業の世界を開いてほしい。次世代の漁業を担う三陸の子どもたちを欧州と北米の2大漁場へ派遣し、交流を促進するための基金の設置を望んでいる。
米沢祐一様 米沢商会代表取締役 /陸前高田市
陸前高田で唯一残っているビルのオーナー(海から1Km陸に入ったところの)です。
両親と弟は建物から50m山側の避難所に避難したが、津波の犠牲となりました。
ビルに残った自分は3階建てビルの煙突(15.2m)まで登って助かる。
自分のビルを震災遺構として残すべく、壊さずに残し、後世に伝えるべく頑張っています。
● 会場から・・
石巻専修大学 坂田学長
大学に被害はなく、発電機や備蓄もあった為、石巻専修大学は当日から避難所となった。社会に対する奉仕が建学の精神なので、
震災時にはこの意味を発揮できました。
支援では無く、ご近所付き合いとして普通のことをしただけと説明。
学生は6名亡くなり、職員は1/3が被災者ですので、支援では無く、共に立ち上がろうという立場で動いています。
被災した学生や職員にボランティアは強制しない、助けてもらえるうちは動かず、
外部からの支援が途絶えたときに動き出した。派手なことはできず、パッとしない活動かもしれないが、
長期間の継続した支援活動をしています。
佐多代表理事
海外から見ると、日本ほど安全で人の気持ちが通じ合う国は無いように感じる。
世界がうらやむ日本人の心を育ててきた中に天災があったのではないか、
四季や大災害で人の心にいろいろな影響を与えているのではないか?
山根様の著書「メタルカラーの時代」は84名の技術者にインタビューして書き上げた書籍であるが、今でも素晴らしい心を持つ日本の技術者がいて、日本を支えている。
このような人々を守って支えることが日本の行く末を決めてゆくのではないか?
過疎化が進む地域では国際化が一つの重要なポイントとなると考え又地元の人達との交友も思い、
千厩の古民家を改築し、千厩国際倶楽部をオープンしました。
これは、連帯東北・西南からのメッセージのひとつです。
また、千厩近郊には中国から嫁いできて、働いている女性が多くいることを知った為、
彼女たちへの労いと、3派に分かれていた彼女たちのグループにもっと連帯感をもってもらえないかとの願いを込めて、
春節を祝う会を2年間に渡って開催、とても喜んでいただきました。
Sharad Chandra Rai(ライさん)
Sharad Chandra Rai(ライさん)を紹介、産経新聞に掲載の記事「ネパールに日本式教育を」で同国の教育施設の窮状を知った為、
記事に紹介されていたネパール人留学生のライさんと会い、この人ならと支援を決め、現地の子供の勉強環境が少しでもよくなればと、
創立記念の昨年に600万円の寄付を行いました。今年の4月に学校が完成予定です。
弊社はネパールの首都、カトマンズ近郊の人口密集地域であるバウダナトに2000年10月、貧困層の為にシェチェン診療所を寄付して以来、
ネパールとは2回目のつながりとなります。東北と同様に、ネパールも過疎化が進み、村には高齢者と子供しか残っていない。
東北の活性化策の一つとして、ネパールから教師候補の人を千厩に呼んで、教育をするようなことを考えています。
普連土学園の評議員をしていますが、最近、高校1年生の作文「愛について」を校長先生より戴き、彼らの言葉が我々連帯東北・西南のスピリットを良く現してくれていると感じたので、紹介させて戴きます。
人それぞれに、寂しさや孤独感などを心に抱えているからこそ共鳴し惹かれあうもの。
一生誰にも愛されない人はいないと思うので、思いやりに感謝する気持ちを持ちたい。
幸せな時とはおいしいものを食べている時だと思う、それも愛する人と一緒に食べていたら無上
の幸せ、個食では幸福感は半減する。人を愛すると自分も幸せになる。
いくら物に囲まれていても、愛が無いと満たされない、孤独にもならない。
現実世界の中で幸を感じるには、人を愛すること、また人から愛されることということに共感する。
人に愛されることで自分が生きる意味を知り、人を愛することで生きていること実感し、生きがいを感じる。
愛の絆の中で、様々な経験をしてゆくのが人生だと思う。
相手が愛してくれて初めて愛されている暖かさを知る。
自分を愛してもらうにはまず人を愛することが必要。
愛には人のこころ解きほぐす力があると思う。
● 仙台白百合学園からのメッセージ
進行役 渡辺瑞穂(みずほ) 様 仙台白百合学園小学校 校長
2015年の12月に、連帯東北・西南のセイエド・タヘル氏より会場の相談を受けたことから始まり、学園のホールを提供することとなりました。
震災以来、併設中高の先生方、生徒は、支援する側に立って活動はしたが、小学校としては特別なことを何もしてこなかったので、何かお返しが出来ればと思い、
今回のシンポジウム開催に協力させて戴くこととなりました。震災当時、白百合学園には118名の子供が残っていたが、津波被害や怪我人は出なかった。
3月16日には児童全員の無事が確認できたのですが、中高を含めると、家族の一部で死者が出てしまいました。
その後、学校では支援物資を集めて市内に配ったが、世界各地から励ましがありました。
震災は大変であったが、人々の行為から学ばせて戴くことが多くありました。
小学校の児童30名による合唱
合唱団ではないが、参加できる人が集まってくれた。
「すてきな友達」(手話つき)と「故郷」の2曲を披露してくれましたが、子供たちの透き通る歌声に心が和み、会場に感動を与えてくれました。
VIDEO
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進行役 渡辺瑞穂(みずほ) 様 /仙台白百合学園小学校 校長
塩釜市在住で、この春に大学生になります。震災当時は中学生で、学校で授業を受けていました。不安と恐怖が襲い、電気ガスはストップ。
家族が迎えに来て帰った先は多賀城市にある祖父の家でした、そこで実家が津波で流されたことを知り、それから半年間避難生活を送りました。
祖父はスーパーを営んでいたので、手伝いをしました。大型スーパーでは購入制限をしていたが、いくらでも買ってもらえる様にして人々に喜んでもらいました。
被害の大きさに絶望感をもったが、皆に応援されていることを知り、世界中に感謝している。
震災を忘れている人も多いのでしょうが、復興は時間の速さに追いついていない。多くの教訓を今後に役立ててほしい。
沢山の仲間やチャンスも震災のおかげで得たのも事実です。生きることが出来なかった多くの命の分まで、皆で精一杯生きてゆきたい。
多くの支援で前向きに歩いているので、いつか恩返しをしてゆきたい。
自然災害には勝てない、如何に被害を最小限にできるか、伝えてゆきたい。この春に大学生となるが、多くの事にチャレンジして学び、東北に帰って復興の力になれるようにがんばりたい。
阿部李紅(りく)さんによるスピーチ /いしのまきカフェ「 」(かぎかっこ)
震災を想い出すのがつらいので、何をしていてどうしたいかを話します。中学生で震災を経験し、
つらい高校生活を送ったが、いしのまきカフェ「 」(かぎかっこ)に出会い人生観が変わりました。
ファッションデザイナー志望から、ボランティア志望となったのです。仮設住宅居住者のメンタルケアに力を入れたい。
ファッションデザインを通して、復興支援や貧しい国の支援をしたい。
困っている人を助けたいが発信が無いとわからないので、そういう人がいたら「 」(かぎかっこ)にいってみなと声をかけてほしい。
阿部李紅(りく)さんによるスピーチ /いしのまきカフェ「 」(かぎかっこ)
仙台白百合学園高校在学中。14年3月11日にバチカン四大聖堂である聖パオロ大聖堂で開かれた『バチカンより日本へ祈りのレクイエム』コンサートに東北代表として選ばれた演奏家です。
バッハ作曲「バイオリンソナタ1番」が披露されました。
● 講演3
岩手県立高田病院 名誉院長 石木幹人(みきひと)様
震災当時、県立高田病院の院長として勤務しており、2015年の3月で高田病院を退職した。
震発生後の3時20分、2~3mの津波が来ると有線放送があった。病院3階を対策本部として対応していたが、津波はそれ以上になるのが見えてきた。
3階も危険と判断して皆を屋上に避難するように指示していたが、院内に残っていた患者もいて入院患者の9割(40名程度の寝たきりの人)が水につかる。
12名が死亡、8名の職員が消息不明となった。病院からの脱出は出来ず、翌朝まで乗り切ることを第一に考えた。
翌朝8時頃にヘリが来て患者の救助が始まり、同日中に全員が救助されました。米崎コミュニティーセンター避難所にて3月13日から診察を再開。
14日には避難所回りをして今後の方針を決めた。4月4日、仮設高田病院再出発。7月25日高田病院外来診療病棟開院。翌年2月1日病棟運用開始。
仮設の周りに「はまらっせん農場」を作り、居住者の体力維持に努めた。
人口構成が変化している。人口は減るが高齢者の数は減らない。日本全体の問題であり、世界的な問題でもある。被災地ではとりわけ早くにこの現象が出ている。
これまでは高齢者を下の世代が支えていたが、高齢者が増えて支える世代が減少する。また、介護サービスや福祉施設も減るので、高齢者が互いに支える仕組みを作ってゆく必要がある。
高齢化社会への対応として、介護が必要にならぬよう、高齢者が健康に注意する。そして、皆で力を合わせる。
明るい未来に向けて地域で変えられるのは、女性の労働力の確保がポイントとなる。介護に時間をとられず、仕事ができることが望ましいのです。
高齢者が集まる場所を作り、そこで学校から帰って来た子供も一緒に過ごす。子供たちの親世代は、仕事をする。
うまく解決出来れば世界的なモデルとなるので、各地域で話をしている。
● パネルディスカッション 未来に向かって
石木幹人 様 岩手県立高田病院 名誉院長
医師不足は深刻な問題です。入院ベッドが地域ごとにどれだけ必要かを考慮して、決められる医療の地域圏で、
手術や救急などの一般的な医療を地域で完結することを目指す2次医療圏は良い考え方です。
大船渡の基幹病院を高田と住田町の病院で補完する仕組みが良い。
しかし、大船渡病院の診療科が減り始め、機能が低下してきたのが問題です。
全国的に呼吸器内科の医師が不足している。
昔はなんでも診られる医師が多かったのですが、どんどん専門化が進んだことが原因です。
なんでも診られる医師の養成が急務です。
岩田千尋様 岩手県立大槌病院 院長
10年後の医療について問われると....
今年の12月には県立大槌病院の再建が完了となりますが、沿岸部なので医師不足が深刻です。
町でも奨学金を出して過疎地に行く医師を募っているのですが、その矢先に震災がありました。少ない資源を使ってどうすればよいかを考えている。
地域内の医療関係者によるチームワークが大事です。大槌病院は流れたが、医師は無事でした。足りないのを嘆くのではなく、医師会中心に立ち上がって病院間をつないで医師不足解消にむけて動いています。
佐藤良規 様 曹洞宗藤源寺 住職/一関市
一関市の藤沢町から参加の住職ですが、お子さんを亡くした人のサポート、子供たちを海でたくましく遊ばせるサポート活動をしています。
責任ある人は医師不足や厳しい状況を嘆いておりますが、庶民がたくましくなれば良いのです。医師が足りないのであれば、元気な暮らしをすれば良いのです。
世界にはインフラの整っていない国がたくさんありますが、そこでも皆が幸せにくらしているので、東北は絶対に立ち上がれるのです。
子供たちを海で遊ばせるプロジェクトで子供たちをたくましく育てる活動をしていますが、
「いかだ」を知らない子供、のこぎりを初めて使う子供たちが参加して、苦労して「いかだ」を作りあげ、海に出てゆく。
1回目は沈んで失敗、2回目はよく考えて再チャレンジして成功。わからないことだらけの体験ですが、参加した子供達にはとても楽しく自信も得られるのです。
菅原正義様 前平泉町町長
昨年の8月まで平泉町長であったが、自由な身となり連帯東北・西南の活動を支援しています。
震災では平泉に大きな被害はなかったが、沿岸部が大変なことを知り、3月19日から70日間に渡って陸前高田に水を運びました。
その後、6月に平泉が世界遺産に登録となり、東北の明るい光となりました。
世界遺産委員会の議長から、平泉が世界遺産になったとき、「被災された皆様に弔意を表したい、私たちはそばにいる、勇気を与えたい」との言葉をパリで頂戴しました。
平泉は震災で疲れた気持ちを癒す町であるようにと、町民として願っています。
医師不足は隣の一関でも深刻であり、産婦人科医の不足や看護師不足が顕著である。
畠山(はたけやま) 満様 大籠キリシタン資料館館長/一関市
岩手県最南の一関市藤沢町大籠地区は、江戸時代の初め、たたら製鉄と村全体がキリスト教で栄え、仙台藩きっての鉄の産地でもあったが、
1639年から数年にわたり幕府のキリシタン弾圧により、この村だけで300余名の方が殉教(処刑)された歴史と、
その事実を後世に伝えるべく建設された殉教公園と資料館について説明されました。
10~20年後の未来について代表より問われると、巡礼者によると大籠は聖地と言われているので、そうであれば、医療や福祉に役立ててゆきたいと考えている。
殉教の心をもっと深く掘り下げて、劇団を作りミュージカルにして、世界に発信してゆきたいと考えています。
藤波 大吾様 奥州市国際交流協会/奥州市
藤波様は黒石寺の僧侶でもありますが、これからを担ってゆく若者としてこの会に参加してもらい、ILCについて、わかりやすく市民の視線で紹介して下さいました。
International linear Collider(国際リニアコライダー)とは、全長31キロメートルから50キロメートルの地下トンネルに建設される大規模研究施設のことで、世界最高 ・最先端の電子・陽電子衝突型加速器です。
この国際的な物理学実験施設が岩手県に建設されれば、多くの外国人研究者や技術者とその家族がこの地域に居住することになります。
総予算が約9000億円のこのプロジェクトは復興の光と言われています。一般の人にとって、
ILCが生活にどうかかわってくるかと言うと、外国人が多く入ってくるので、その関連での仕事が増える。子供や孫が外国人と友達になるなど、皆様の生活に身近にかかわってくるのです。
また、経済や生活の面だけでなく、ILCは日本の文化にも影響を与えるのではないかと考えられます。
外国人に自分達が誇りとしているものをどう伝えるのかを皆が掘り下げて考えることで、文化的な成熟度が増すという副次的な効果も期待できるように思います。
また、医療通訳の派遣システムの整備等を進め、外国人の皆さんが安心して暮らせる地域をつくることも国際化という観点からは非常に大切なことです。
佐多代表理事
10年20年後の未来を考えると、岩手県がILCの建設候補地になっていることを知った時、
市民レベルでの盛り上がりに欠けていることが気になり、科学者の皆さんの我が国におけるILC建設地をどこに選定するかという日程も迫っていると聞き、
是非東北を応援したいとILC誘致支援ウォーキングイベントを2度開催しました。市民活動を前向きに行い、政治的ではなく、皆が積極的に動くのが大変大事と考えました。
政治家も若い人が応援して欲しいが、老人を見ている政治家が多いのが問題で、世代交代が必要と考えています。
医療の過疎化が日本中で広がっていますが、福島での事件をきっかけに産婦人科の減少が顕著です。
石木先生や岩田先生は困難な被災地で大変な自己犠牲を背負って頑張っておられる立派な先生方ですが、
医師がいない町は寂れてしまいます。日本で医療の過疎化がどんどん進んでいることは地方の発展にとり大きな問題です。
日本の将来は東北の復興だけでなく、日本全体をどうするかが重要です。
アベノミクスによる景気回復も未だ完全ではなく、復興にはいくつもの壁を乗り越えなくてはなりません。
震災あるいは天変地異によって、日本人の素晴らしい人間性あるいは社会としての良きあり方が鍛えられているとも言えますが、
東日本大震災後の状況を前向きにとらえて、より高いレベルの日本の国作りにむけて努力をすべきではないでしょうか?
今日は東日本大震災で亡くなられた皆様へのご供養としてシンポジウムを企画し、一日を皆様と過ごさせて戴きましたが、日本全体が頑張らなければとの決意につながればと期待します。
午前中の最後に紹介した女子高校生の思い「人に愛されることで自分が生きる意味を知り、
人を愛することで生きていること実感し、生きがいを感じる。愛の絆の中で、様々な経験をしてゆくのが人生だと思う」を改めて紹介させて戴き、我々皆の心のよりどころと致しましょう。
日本人はまだまだ強くならなくてはいけない、国や補助金に頼らず自立の気持ちをしっかり持った人が増えていかなくてはならないとのコメントで終了となり、
最後に全員で黙祷を捧げてシンポジウムが終了となりました。